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存在内部の空白を埋める愛
2009年6月8日月曜日,20:50





手にとればもう読むのをやめられない。あなたは現実世界の「いまとここ」を忘れ、待ちに待った村上春樹の新たな物語世界に没入している。「春樹的」と形容するほかない魅力的な比喩(ひゆ)の数々。用いられる個々の表現の的確さとその響き、言葉と言葉、文と文のつながりを含め、どんな細部もゆるがせにしない、徹底的に考え抜かれ彫琢(ちょうたく)された音楽的な文章。頁(ページ)を繰りながら魂の扉がとんとんと叩(たた)かれているのを感じるはずだ。扉を開く。すると心の内側なのか外側なのかわからないそこには、あなたのものであり、かつ誰のものでもある光景が開かれている。このきわめて親密でありながらどこか遠い普遍的な風景に出会うこと、あるいはそれを思い出すこと。村上春樹を読むとはそういうことだ。

 本作は各巻が24章から成り、奇数章では、指先に特殊な才能を持つ、青豆という風変わりな名の女性の物語が、偶数章では、天吾という小説家志望の予備校数学教師の物語が描かれる。青豆は首都高速道路の非常階段を降りることで、彼女が生きていた1984年の現実とは微妙に異なる「1Q84年」の世界に入り込んでしまう。一方、天吾も「ふかえり」という17歳の謎の少女の小説『空気さなぎ』を書き直したために奇妙な事態に巻き込まれ、彼のそれなりに充足した日常からは均衡が失われていく。

 青豆も天吾も不幸な幼年期を送っている。この小説に登場する多くの者は暴力の犠牲者であり、心と体を無惨に破壊されている。DV、児童虐待、宗教的狂信と名称は様々でも、暴力を生み暴力が生む「闇」は、いつの時代でも存在する以上、青豆と天吾の生きる1Q84年は、紛れもなく私たちの世界なのだと言える。

 物理的なものであれ象徴的なものであれ、暴力は人間の存在の内部に「空白」をうがつ。この空白をネガティブな力で埋め尽くし、底無しの虚無に変えようとうごめく巨大な闇に対して、小説に何ができるのか。村上春樹はそのことを問い続けてきた。答えは各自が各様に見つけるほかない。だがヒントはある。

 天吾は十歳のとき、ある女の子に手を握られる。そのとき彼女の存在の一部を、生命の温もりを確かに受け取り、それがずっと彼の意識の中心を満たしてきた。青豆もまた十歳のとき、一人の男の子に出会い、彼を一生愛し続けるのだと決意する。その愛が存在の中心にあればこそ、親友の自死など苛酷(かこく)な経験を耐え、生き続けることができたのだった。強く、深く、人を思い続けること。そのとき世界は空に浮かぶ月とは違って孤独ではなくなる。これは途方もない愛の物語である。


遺伝子支配に対抗する均衡

 冒頭から読者は強い流れに引き込まれる。その強度はこれまでのどんな作品よりも大きい。やがて読者は当惑に直面する。「リトル・ピープル」をめぐって。夜ごと、山羊(やぎ)の口から出てきて「空気さなぎ」を作る不可思議なこびとたち。実体があるのかないのかわからず、善悪もわからない。ただそれは「着実に我々の足元を掘り崩していく」存在として登場する。

 リトル・ピープルは本書最大の謎である。それは1Q84年の世界において、目に見えないながら私たちの内部にひそむものとして描かれる。その点がオーウェルの『1984年』における、外的な支配者「ビッグ・ブラザー」とは違う。彼らは「山羊だろうが、鯨だろうが、えんどう豆だろうが。それが通路でさえあれば」(傍点は評者)姿を現し、私たちを徹底的に利用する。利用価値がなくなればたやすく乗り捨てていく。そういうものとして描かれる。

 現在、私たちは私たちの運命を収奪し、一義的に因果づける内的な存在を知り、それを信奉している。それはえんどう豆の研究から見いだされたところの遺伝子(的なもの)である。もちろん遺伝子は物質以外のなにものでもない。しかしひとたび、それが小さいながらも擬人化されて捉(とら)えられると、利己的な意思と意図を帯び、世界と私たちを支配するために動き出す。

 遺伝子の究極的な目的は永続的な自己複製である。「母(マザ)」からクローンとしての「娘(ドウタ)」を作り出すこと。そのメタファーが「空気さなぎ」ではないだろうか。

 しかし青豆は問う。「もし我々が単なる遺伝子の乗り物(キャリア)に過ぎないとしたら、我々のうちの少なからざるものが、どうして奇妙なかたちをとった人生を歩まなくてはならないのだろう」と。

 遺伝子が利己的な支配者に見えるのは、私たちがその物語を信じ、身を委ねたいからである。そこに私たちがたやすく切り崩されてしまう契機が潜んでいる。それはかつて外側に存在していたビッグ・ブラザーを内側に求めることに等しい。リトル・ピープルに象徴されるこのような不可避的で、それでいて誘惑的な決定論に対抗するには、一つ一つの人生を自分の物語として自分で語り直すしかない。重要なのはその均衡であり、均衡は動的なものとして、可能性の在処(ありか)を示す。そう本書は宣言している。

 私たちは時に合理性を無視し、利他的に行動しうる。その動因として私たちは自らの内部の核に、自らの複製ではない「さなぎ」をはぐくむことができる。本書の結末をそういう風に私は読んだ。

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