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カルト映画傑作25選
2008年9月12日金曜日,23:49




人々の心をとらえる名作映画はこれまでに数多く輩出されているが、中には公開から数十年を経ても熱狂的なファンに支持され続けている作品も存在する。こうしたカルト的人気を誇る映画について、過去25年の間に公開された作品を対象とした傑作ランキングを米誌エンターテイメント・ウィークリーが発表した。1位に選ばれたのはフランク・ダラボン監督の「ショーシャンクの空に」(1994年)で、日本からは唯一、大友克洋監督の「AKIRA」(88年)が10位にランクインしている。


この調査は、83年以降に公開された映画を対象に行われた。1位に選ばれた「ショーシャンクの空に」は興行成績こそ芳しくなかったが、完成度の高さがビデオ化後に口コミで広がっていった作品だ。映画データベースサイト「IMDb」のユーザー評価ランキングでは、長きにわたって1位に君臨している。フランク・ダラボン監督は、同作に続いて「グリーン・マイル」(99年)、「ミスト」(07年)とスティーブン・キングの小説を映画化した。


2位はブライアン・デ・パルマ監督&アル・パチーノ主演による「スカーフェイス」(83年)。この作品も公開当時はメディアから酷評を受け、興行成績が振るわなかった。アル・パチーノ作品では「ゴッドファーザー」シリーズの1作目がIMDbランキングで2位、2作目が4位と人気だが、同作も171位につけている。ちなみに、「スカーフェイス」コンビによる第2作「カリートの道」(93年)はランクインしなかった。


3位はアレックス・コックス監督の「レポマン」(84年)、4位はロブ・ライナー監督の「スパイナル・タップ」(84年)、5位はテリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」と同年代公開の作品が続き、「スクール・オブ・ロック」などで知られるリチャード・リンクレイター監督の「バッド・チューニング」(93年)、ジョン・ウー監督の「ハード・ボイルド/新・男たちの挽歌」(92年)、サム・ライミ監督の「死霊のはらわたII」(87年)、ティム・バートン監督の「ピーウィーの大冒険」(85年)、ジム・ジャームッシュ監督の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(84年)、ジョエル&イーサン・コーエン兄弟監督の「ビッグ・リボウスキ」など、現在第一線で活躍する名監督たちの作品もランクインした。




一方、邦画で唯一選ばれた「AKIRA」について同誌は、「『AKIRA』以前のアニメで、これほど刺激的な作品はなかった」と評している。

[過去25年間のカルト映画傑作25選]
1位 「ショーシャンクの空に」(94年、フランク・ダラボン監督)
2位 「スカーフェイス」(83年、ブライアン・デ・パルマ監督)
3位 「レポマン」(84年、アレックス・コックス監督)
4位 「スパイナル・タップ」(84年、ロブ・ライナー監督)
5位 「未来世紀ブラジル」(85年、テリー・ギリアム監督)
6位 「バッド・チューニング」(93年、リチャード・リンクレイター監督)
7位 「ハード・ボイルド/新・男たちの挽歌」(92年、ジョン・ウー監督)
8位 「死霊のはらわたII」(87年、サム・ライミ監督)
9位 「ピーウィーの大冒険」(85年、ティム・バートン監督)
10位 「AKIRA」(88年、大友克洋監督)
11位 「悪魔の毒々モンスター」(84年、マイケル・ハーツ監督)
12位 「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(84年、ジム・ジャームッシュ監督)
13位 「クラークス」(94年、ケビン・スミス監督)
14位 「ZOMBIO(ゾンバイオ)/死霊のしたたり」(85年、スチュワート・ゴードン監督)
15位 「ビッグ・リボウスキ」(98年、ジョエル&イーサン・コーエン監督)
16位 「ウイズネイルと僕」(88年、ブルース・ロビンソン監督)
17位 「ショーガール」(95年、ポール・バーホーベン監督)
18位 「ゼイリブ」(88年、ジョン・カーペンター監督)
19位 「ヘザース/ベロニカの熱い日」(89年、マイケル・レーマン監督)
20位 「天才マックスの世界」(98年、ウェス・アンダーソン監督)
21位 「バカルー・バンザイの8次元ギャラクシー」(84年、W・D・リクター監督)
22位 「ラヴ・ストリームス」(84年、ジョン・カサベテス監督・主演)
23位 「Superstar: The Karen Carpenter Story」(87年、トッド・ヘインズ監督)
24位 「Walking and Talking」(96年、ニコール・ホロフセナー監督)
25位 「ザ・メタルイヤーズ」(88年、ペネロープ・スフィリース監督)

これでいいのだ
2008年9月7日日曜日,9:00



8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。

 10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。

 終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。

しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。

 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。

 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『このやろう逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。

 いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

 あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。

 私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義」

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